【競艇史を彩る有名選手】不死鳥の如き不屈の精神!“艇王”植木通彦選手を徹底紹介

競艇ファンなら誰もが知っているであろうレジェンドの1人、植木通彦選手について紹介したいと思います。
奇跡の復活劇から怒涛の快進撃を続け、“艇王”とまで呼ばれるようになった名選手です。

植木通彦選手の基本データ

登録番号:3285

生年月日:1968年4月26日

身長:165cm

体重:51kg(現役時)

血液型:O型

支部:福岡

出身地:福岡県

登録期:59期

級別:A1

植木通彦選手の来歴

植木通彦植木選手は1968年4月26日、福岡県北九州市で生まれました。
福岡県立小倉商業高校に進学後は野球部に所属するものの、2年生のときに中退。
その後、全国モーターボート競走会連合会本栖研修所(現・ボートレーサー養成所)に入所します。

1986年11月に福岡競艇場でデビュー戦を飾った植木選手ですが、1989年、桐生競艇場でのレース中に転覆し、プロペラと接触。75針を縫うほどの大ケガを負い、復帰が危ぶまれる状況に陥ります。
しかし半年後、このケガを乗り越え、桐生競艇場で復帰を果たしました。
この一件以来、競艇ファンから“不死鳥”の異名で呼ばれるようになります。

その後、SGやG1など、さまざまなレースで優勝を飾った植木選手はいつしか“艇王”と呼ばれるようになり、怒涛の快進撃を続けました。
しかし2007年、第42回総理大臣杯でフライングをしてしまい、1年間のSG出場資格停止処分を受けます。
そして復帰後、まもなくして突然の引退を表明。20年のボートレーサー人生に幕を下ろしました。

特徴

モンキーターン植木選手の一番の特徴といえば、SG初優勝の際に披露した「モンキーターン」でしょう。
前傾姿勢で立ち上がり、艇の外側を勢いよく蹴るようにして回る旋回方法です。
通常の旋回に比べて外側にウェイトがかかる分、高速で回ることができます。
デビュー直後に大ケガを負ったにもかかわらず見せたこの大技は、多くの競艇ファンを魅了しました。

エピソード

ボートレース事故のイメージ植木選手といえば、やはり事故からの復帰が印象的です。
時速80kmのスピードで突っ込んでくる後続艇のプロペラに顔面を切り裂かれ、搬送されたときには顔が原型を留めていなかったといいます。
しかし、そんな状況でも植木選手は搬送中、付き添いの職員にスタートの成否を確認したというエピソードがあり、競艇に対する熱い想いが感じ取れます。

あだ名の理由

植木通彦ボートレースCM植木選手に付けられたあだ名は、“不死鳥”と“艇王”の2つです。
“不死鳥”は上記のように、選手生命の危機に陥りながらも見事に復帰したこと、そして復帰戦の場として事故が起きた桐生競艇場を選んだことに由来します。
一方、“艇王”はその圧倒的な実力から名付けられました。
特に話題となったのが、2002年に達成した「年間SG優勝3回」と「年間獲得賞金2億8000万円越え」でしょう。この記録は競艇だけでなく、公営競技全体で見ても最高記録として残っています。

植木通彦選手の現在

植木ボートレースアンバサダー引退後、植木選手は日本モーターボート競走会の理事職に就任しました。
また、2012年4月からボートレーサー養成所の校長を務めた経歴もあります。
現在はBOAT RACE振興会のボートレースアンバサダーを務めており、競艇の発展と普及に尽力しています。
日々の活動やボートレースに関する記事を公式ブログなどで発信しているので、ぜひそちらも確認してみてください。

まとめ

復帰困難だと思われた状況から奇跡の復活を果たし、圧倒的な実力で数々の偉業を成し遂げた植木選手。
現在、選手としての姿を見ることはできなくなってしまいましたが、競艇への熱い想いは変わらず、日々競艇界を盛り上げるために活動されています。